何かを失った上での幸せは本物なのか?
こんばんは(^^)
下書きはあるのですが、何故かピンと来なくてちょっと待ってみたら、来ました〜!
やはり、あんまり気を張り詰めすぎずに待つのも大事なんですね!
何かを犠牲にした上での幸せとは本物の幸せなのか?
犠牲にするということは、何かを失うこと。
犠牲には
『一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものを捧げること』
という意味があります。
確かに、僕も失ったものがあったから今の自分がいると思います。
しかし、その失ったものって、本当に『失った』のかと考えると、またちょっと違った感じがします。
その場面を切り取ってみると、確かに失いました。
手元から失くなったので。
しかし、失くなった『からこそ』、『あることに対する感謝』が芽生えました。
すると、今度は『失わなくていい方法』が浮かぶようになりました。
つまり、『犠牲を払う』(失う)から幸せになるわけではないと思います。
幸せになるためには、何かを犠牲にして頑張らなきゃいけない。
簡単に幸せになってはいけない。
よく聞く言葉ですが、本当に?って最近ずっと思います。
僕が、様々なものを良くも悪くも失った一昨年。
その時の自分と今の自分を比べると、驚くほど変わりました。
本当に、心から『感謝の気持ち』が湧いて来ました。
一昨年の自分は、感謝の気持ちで溢れておらず、存在していること、そこにある物などに対して『当たり前』と思っていました。
まぁ、何なら存在していることは全否定していたくらいですが・・・
つまり、犠牲を払ったことにより、当たり前ではなく、感謝すべきことなんだよって教えてもらったんですね。
では、あの時から感謝の気持ちを持っていたら犠牲を払わずに済んだのか?
多分ですが、済んだと思います。
ただ、僕の場合は『感謝の気持ちを持たず、自分の存在を否定し、犠牲を払って、全てが感謝すべきことである』ということを学ばなければならなかったのだと思います。
今日のこのネタ。
長々と書いて来ましたが、宇宙さんからは一言で言われました。
『神は犠牲を求めない』
何かを犠牲にしないと幸せになれない、は勝手に作り上げられた幻想。
本来、愛と感謝の気持ちを持って自分を含めた全ての人、物に接していると『犠牲』って払う必要ないはずです。
一番大切にするべきなのは、『自分自身』です。
自分を大切にするから、周りの人や物を大切に出来ます。
魂の成長の為に払う『犠牲』は仕方ないです。
それを今世の学びのために、『宿命』として持ってきたからです。
ただ、今の僕からしてみると、あれは『犠牲』とは言えないのです。
何かを学ぶために、塾や習い事、高校、大学に行くためのお金や時間のこと、『犠牲』って言うでしょうか?
僕は、言わないような気がします。
塾や習い事、高校、大学などは『お金と時間』で行けます。
魂の学びは『お金、時間』だけではありません。
車や家、大切な『物質』かもしれませんし、家族、友人など『人』かもしれません。
神は、『無条件の愛情のエネルギー』なので、『何かを失わせて』『嘆くようにする』ために、『犠牲を払わせる』のではないです。
『自分を大切してね。周りの人や物を大切にしてね。全ての人や物に愛を持って、全てのことに感謝してね。それが今の学びだから踏ん張って!』と伝えたいのだと思います。
ちなみに、余談ですがあの時、魂の成長の為に手放し、心理学やスピリチュアルなことを調べたり学び、実践し、自分を大切にして周りの人や物に愛を持って大切に接して、全てのことに感謝した今、あの時よりより良いものをより多く手にしていると実感しています。
お陰様です。
ありがとうございます。
幸せです。
豊かです。